COLUMN シーンの中にいる人たちの言葉

STAY CRAZY/FOREVER LOVE

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村上友哉(明日、照らす/さよならパリス)

明日、照らすとさよならパリスで9割作詞作曲をし、ギターを弾きながら歌を歌う人。夢は「ミュージシャン初、デラべっぴんでコラムを連載する事」だったが、雑誌の廃刊に伴い、新しい夢を模索している途中との事。

2017.3.4

ストレイト・ストーリー/村上友哉(明日、照らす/さよならパリス)

彼女は88歳で1人東京に住んでいた。
女性として初の大手保険会社の相談役にまでなった
キャリアウーマンのはしりのような人だったらしく、
そんな仕事メインの生活だったからか
結局一度も結婚はしなかった。
独身生活を謳歌しながら、
今でも普段から毎日ビールを飲み、
タバコはピースを吸っているらしい。
信じられないくらいパワフルな生き方だ。
「いつNHKの連続テレビ小説の主役のモデルになってもおかしくないね。」
そんな叔母を持つ知人から彼女の話を聞いた時、
笑いながらそう答えた。
もちろん半分は冗談ではあるが、
もう半分は本当にそう思っていた。
僕にも88歳になる父方の祖母が滋賀県にいるが、
祖父が退職後にパートをしていたくらいで
そういうキャリアを積むような仕事もしていなければ、
お酒も飲まないし、
タバコも吸わないごく普通の老後を送っていたので、
そんなドラマのような人生を送っている
おばあちゃんがこの世の中にいることが、
頭の中でうまくイメージできなかった。

僕の祖母は12年前に祖父を亡くしてから
滋賀県に1人で住んでいる。
子供を2人産んでいたので、
孫は5人とひ孫も2人いる。
愛知県に住んでいる
僕の父や母が頻繁に帰れない分、
デイサービスやホームヘルパーを駆使して、
毎日家には誰かが来るようになっているが、
僕も名古屋での生活があるので
年に3.4回しか会うことはできない。
僕の本当の生まれは滋賀県で
本籍も未だに滋賀県になっていて、
愛知県に本籍を移動させなかった理由は、
「ちょっと不便でも祖父母がいる以上は、
戸籍上もちゃんと滋賀県との関わりを残しておきたい。」
という母の提案だった。
そんな村上家は
僕の物心がついた時から
お盆とお正月は滋賀県の祖父母の家で過ごしていた。
中学高校の頃は
普通の年頃の男の子と同じような反抗期もあり、
大学に入ってからは
かなり行く回数もまちまちになってきたが、
ここ数年はなるべくお盆とお正月にライブや予定を入れず、
滋賀県に帰り、
祖母と過ごすようにしている。
家族の誰かに指摘をされた訳ではなく、
これから先、
あと何回過ごせるのかと思うと
自然と自分から足が向くようになった。
正直、
帰ったところでやることは特にない。
とりあえず
滋賀に帰ると
毎朝30分くらい健康のために
近所を歩いている祖母と
一緒に早起きして
山菜を採りながら歩き、
昼になってお墓参りを済ませた後、
行きたいところを聞いてから
車でスーパーや100円ショップに
買い物に出かけて、
夕飯はいつも近所のくら寿司に行き、
僕がご馳走している。
せっかくの機会だから、
もっと高い買い物でも食事のお店でもいいと
色々とインターネットで調べては
お店を提案したりするのだが、
結局、
いつもの100円ショップとくら寿司に落ち着く。
本当に欲がない。

1940年代、
祖母は12歳で実家を出ざるを得なかった。
石川県の実家の両親は雇われのお百姓で
他人の田んぼを耕してはお金をもらっていたが、
それだけでは6人兄弟を育てるのに足りなかったので、
大体それくらいの歳になると
兄弟は家元を離れて順番に出稼ぎに出ていた。
最終学歴が小学校でも
仕事はいくらでもあった。
今では考えられない話だが、
あの頃の紡績工場や軍事系の工場の求人担当者たちは
夏頃から地方の貧しい農家をまわり、
年頃の子供たちを見つけると
両親と交渉して、
頭金前払いで何年かの契約を結び、
春から子供たちは親元を離れ、
工場の寮で
働きながら生活するということが
当たり前のようにあったらしい。
それくらいみんな貧しかった。
まだ12歳とはいえ、
頭金を貰っているので、
勝手に帰ることも許されず、
選択肢は寮での暮らしと労働のみ。
あの時、
同じ歳くらいの女の子同士の寮の部屋の中で、
夜みんなが寝ていると
どこからともなく
「お母さん、お父さん。」
と寂しさに耐えきれず、
小さくすすり泣く声が聞こえてきて辛かった
と最近になって祖母は僕に話してくれた。
祖母は第二次世界大戦をこの紡績工場で迎えた。
石川県で大規模な空襲があった日、
工場や寮の至る所で火の手が上がり、
祖母は
「水辺なら安全かもしれない。」
と工場の近くを流れていた浅め川に入り、
どこまでもただひたすらに走った。
川の水を全身に浴びながら
川の周りに転がる亡骸を横目に
ただひたすらに行くあてもないまま、
空襲が終わるまで走り続け、
いつまでも生きた心地がしなかった。
戦後、
出張先で石川県に来ていた祖父が祖母と出会い、
2人は結婚することになった。
これでようやく安心した暮らしが待っているのかと思いきや
祖父の両親との同居も
また違う意味での苦しい生活が待っていた。
馴染みのない、
また身寄りも友達もいない滋賀県での暮らしの中、
姑や小姑は祖母に厳しかった。
「当時はそういうものだった」
と言っていたが、
いくら働いても給料は全て両親に手渡した。
そんな暮らしを見兼ねた祖母の会社は
わざと本来の額と
両親に出す用とで給料の明細を2つに分け、
祖母にもちゃんとお金がまわるように工夫してくれた。
また祖父もたまにはゆっくりと休めるようにと
自分の両親には内緒で
祖母の会社と相談して休みを作ってあげていた。
そんな休みの日は
駅近くの河原の土手に座り、
お弁当を食べながら、
1日のんびりと過ごし、
夕方になると
祖父が河原に迎えにきて、
一緒に家に帰った。
僕が物心がついた時から
祖母は裁縫が得意だった。
これも
自分の家を持ったものの本当にお金がなく、
子供が生まれたが、
服すらまともに買えなかったので、
人から着古した服を貰ってきては、
その服をほどき、
型紙を取って、
自分で新しく布を一から縫って
学生服や普段着を作っていたので、
自然と上手くなっていったらしい。
今でも祖母は裁縫が得意で、
通っているデイサービスで
みんなの服をリサイズしてあげたり、
自由時間で
所長さんからお願いされて
みんなに裁縫を教えてあげている。
自由時間で小さなフクロウの置物を作る際も
4段階くらいの作りかけのフクロウを数体作り、
「今こうなっていて、
ここを縫うと次はこうなります。」
と作りかけのフクロウを
順々に見せながら教えているみたいで
「色々アイデアまで出して頂いて、
本当に助かっています。」
と僕の母がデイサービスの所長さんに会った際にそう言われたと言っていた。
そんな話を聞きながら、
「デイサービスに通う側から
サービスする側に回れる
おばあちゃんって世の中にどれくらいいるんだろうな。」
ということをふと思った。
祖母はよく
「愛される可愛いおばあちゃんになりたい。」
と言っていて、
身内の判断なので冷静ではないかもしれないが、
色々と不遇の時代も多かった分、
僕が見る限り、
少なくとも
家族、親戚を含めた
関わっている人から皆、
愛される可愛いおばあちゃんになっていると思う。

『ストレイト・ストーリー』は
1994年にニューヨーク・タイムズに掲載された実話のコラムを
本作の監督であるデヴィッド・リンチの友人が読んだことをきっかけに書いた脚本に
リンチ自身が着想を得て撮ったロードムービーで、
本当に一言で言ってしまうと
杖を二本使わないと歩けないほどに
年老いた弟アルヴィン・ストレイトが
ただアイオワからウィスコンシンまでの
560kmの距離を
時速8kmのトラクターに乗って、
病気で倒れた兄ライト・ストレイトに会いに行くだけの話だが、
観終わった後には
明日一番最初に会った
誰かに優しくしたくなるような
そんな温かい気分にさせてくれる映画だと思う。
『イレイザーヘッド』や『エレファントマン』のような
カルト映画の巨匠であるリンチが撮ったとは、
本当に信じられない内容と空気感。
旅に出るまでは映画を30分くらい観ていても
アルヴィンが一体何者なのか、
家族構成すらほとんど分からない。
しかし
旅を通してアルヴィンが出会う人々と触れ合い、
彼が自分の経験上の話や体験した出来事を
出会った人々に語ることで
少しずつ彼が何者なのか、
なぜ兄に会いに行く必要があるのか
その理由が少しずつ分かってくる。
結局、
人は人を通して自分を知り、
相手もまた人を通して自分を知る。
そんな小さく尊い社会のサイクルが
いくつも繋がってできた
ショートムービー的な作り方もまた
この作品の魅力だと思う。
アルヴィンが語る話は
表面上はただの会話でしかなく、
囁くように言葉数も少ないが、
いつでも自分の人生を相手に少し分けてあげているような
そんな生きるための優しいアドバイスを含んでいる。
この映画を観ていると
やっぱり
老人にはシワや白髪の数だけ
樹木の年輪のように
深く歴史が刻み込まれていて、
ただやたら前置きが長く
声がでかいだけの演説なんかよりも
説得力が全然違うなと痛感させられた。
老人にはその老人の数だけ歴史があり、
スポットライトこそ当たってはいないが、
その一人一人にきっと
連続テレビ小説でも語りきれないほどのドラマがあるのだろう。

ある日、
ウィスコンシンを目指して旅をしていた
アルヴィンは
サイクリングをしている若者の集団と出会った。
夜になり、
若者たちと共にキャンプをしながら、
1人の青年と焚き火を囲んでいると
アルヴィンが
「若い時は自分が歳をとるとは思わんな。」
とふと呟く。
すると
隣に座っていた青年が
「歳をとって良かったと思うことは?」
とアルヴィンに聞いた。

「目も足腰も弱っていい事なんてないが、
経験を積んで
年とともに実と殻の区別がつくようになって、
細かい事は気にせんようになる。」

すると目の前で
キャッチボールをしていた
別の青年が
「それじゃ、年をとって最悪なのは何?」
とアルヴィンに聞く。

「最悪なのは若い頃を覚えていることだ。」

88歳の祖母が今でも比較的健康で
自分の足で歩けたり、
自分の歯でご飯が食べられたり、
裁縫ができる程度に
目や指先の感覚があることを思うと
神様の存在を信じたくなる。
今までこれほどまでに苦労してきたのだから、
老後くらいは多少の体の不自由はあっても
ちゃんと1人で好きなような生活ができるように
通常の88歳よりも
元気な姿にしておいてくれたじゃないか、
夢すら持てなかった激動の日々の中で
最後の最後に
唯一願ったささやかな夢である
愛される可愛いおばあちゃんにさせてくれたんじゃないか、
そう思っても不思議ではない。
ただそんな祖母を見ていて
いつも感じるのは、
「老人は生きているだけで人に迷惑を掛けている存在」
と思っている節があること。
僕がお盆やお正月に帰ると
嬉しそうではあるが、
まず先に
「せっかくのお休みにごめんね」
「忙しいのにありがとうね」
と本当に
「いつも迷惑ばかりかけて。」
とでも言いそうな勢いで、
どこか申し訳なさそうにしていて、
車の乗り降りを支えてあげたり、
買い物の荷物を持ってあげたりすると
「いつもごめんね。」
と僕にすぐ謝ってくる。
「昔なら会いに行けた」
「昔なら自分で出来た」
そんな若い頃の自分の面影が消えないのであろう
祖母の姿を見ていて、
僕はいつも
「会いたくて来てるんだし、
したくてしてるんだから、
気にしないでほしい。」
と答えることしかできない。
僕からすると
祖母は世界にただいてくれるだけでいい。
本当にそれだけでいい。
こうやって昔の話を教えてくれたり、
僕の話に笑ってくれたり、
100円ショップやくら寿司に行ったり、
一緒に朝並んで歩きながら、
「しかし
いつ友哉のお嫁さんは現れるのかしらね。」
とたまに心配してくれたのを
「まあそのうち、
山菜みたいにひょっこり現れるんじゃないかなあ。」
と適当に笑ってはぐらかしたり、
そんな何気ない出来事をただ過ごせるだけで
僕は充分嬉しいし、
他に望むことは何もない。
むしろ本当はもっとわがままを言ってほしい。
自分が本当にしたいことや
欲しいものがあるのなら、
何の気も使わないでねだって
いつでも僕を困らせてほしい。
だって
それくらいのことをしたとしても
バチは当たらないくらい
祖母は自分のためではなく、
人のために今まで生きてきた。
本当にいつもそう思っている。
だから
「来年のお正月は一緒にいれるか分からない。」
なんてことは冗談でも言わないで、
いつまでもずっと長生きして下さい。

追記
冒頭に出てきた知人の東京の叔母が
先日亡くなった話を聞いて、
その時に思ったことを書いたコラムでした。
心よりご冥福をお祈り致します。

親父やお袋とも話すけど、
祖父母と離れて暮らすことが
良いことなのか、
悪いことなのか、
今だに分かりません。
一緒に暮らしていた方が沢山会えるし、
いつでも顔を見て心配できるけど、
離れて暮らしていたからこそ
こうやっていつまでも新鮮な気持ちで過ごせるのかもなあと思えるからです。
それくらい
一緒に暮らしていたからこそ
仲が悪く、
肉親の枠を越えて、
いつまでもいがみ合っている関係の家庭を
見たことがあるから。
いつでも会えなかったからこそ、
離れていたからこそ、
僕は今でも祖父母のことが好きなのかもしれない。
ものすごく寂しい考え方だと思うけど、
もしかしたら現実的で
理に適っているのかもしれませんよね。
もちろん祖父母の人柄も大好きなのは前提として。
祖父が亡くなった後、
滋賀で1人で暮らしたいというのは、
祖母の希望でした。
祖父のお墓から離れたくないことと
今から知らない街で暮らすことが考えられない
という理由でしたが、
何となく本人もそう思っていたのかもなあ。
結局、
祖母の口からはっきりとは聞いてはないけど、
多分、
昔一緒に住んでた
姑と小姑に相当な意地悪をされたと思うんですよ。
とりあえず1つだけ分かっていることは
こうやって祖父母を愛しく思える感覚を持てた
家庭に育ったことに
まずは感謝すべきなんでしょうね。

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